存在性についての妄想とサイエンス「フィクション」

今週のお題「SFといえば」

SFを語るうえで欠かせないのが宇宙人の存在ですね。世界20000人以上を対象としたアンケートでは、宇宙人(何らかの知的生命体)が存在すると考える人は過半数に及びます。

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かくいう私も、宇宙人は「一般的な意味では」存在すると考えている人間の一人です。

しかし、ある意味では宇宙人は存在しないとも考えています。

 

一般的に、ある「モノ」とは存在するか存在しないかの二元論、つまり0か1で片付けられますね。

しかし私はそうもいかないと思っています。つまり、ある「モノ」の「存在」は数直線上のどこかに存在する、スペクトルで表せるのではという考えです。そしてその考えを援用することで、SFがこれほどまでに人気になった理由を考察できます。

スペクトルのイメージ

例えば東京タワーを例にとります。私たちは東京タワーが存在することを知っていますが、それはどうしてでしょうか。東京在住のある人は実際に自分の目で東京タワーを見たことがあるから。ある人はテレビで東京タワーが映っているのを見ていたから。様々な理由があります。

 

しかし、次のような主張も原理的には可能です。

東京タワーは本当は存在しないのに日本政府が隠ぺいしているんだ!

上で述べたような理由から、こんな陰謀論を信じる人などいませんが、100%この陰謀論を否定できることはありません。私たちの脳が様々な情報を統合することで、「東京タワーは存在する」というある種の「信仰」が形作られます。

確かに存在する「はずの」東京タワー

 

これは数直線上で考えることもできます。「東京タワーが存在する」を1、「東京タワーが存在しない」を0と考えます。様々な理由、証拠により東京タワーの存在性の数値は0.999....と非常に1に近い値をとります。それを脳が勝手に極限をとって、1だと再認識しているわけです。

 

つまり、脳が極限をとった結果が1になれば「存在する」。これが一般的な意味での存在性の定義だと考えています。

 

さて、本題に移ります。果たして宇宙人は存在するのでしょうか?

 

私たちが宇宙人の存在を認識できるとして、それはどのような方法によるのでしょうか。宇宙人を実際に目視するのか?それとも複雑難解な機械によって表示された「宇宙人は存在します」という文字列を確認するのか?極端に言えば私が言いたいのはこの二つの違いです。

 

そもそも、私たち人間が五感を用いて(第六感も存在する可能性がありますが)直に認識できるものなどかなり限られています。例えば先に述べた「視覚」についても、人間が認識できるのは電磁波のうち限られた範囲の波長のものだけなのです。しかし、一部のヘビ類は可視光外の電磁波である赤外線を認識することができます。仮に宇宙人が赤外線を認識できるヘビ達にしか見えないようなやり方で私たちの眼前に現れていたとするなら、それは私たち人間にとってその宇宙人は存在しているといえるのでしょうか。

 

流石にそれぐらいなら存在する、と言える人が多いように思います。なぜなら、私たちが目に見え触れることのできるヘビが、可視光波長のすぐ隣に位置する赤外線を用いて、紛れもなく存在すると認識しているのですから。それだけヘビは私達に認識の距離として「近い」ことを意味します。

人間にはない認識能をもつ「ヘビ」



さて、科学は私たち人間の能力の限界を常に押し広げようとしています。途方もないところまでいってしまうのではという気にすらなります。現代科学の特徴として、徹底的な専門化、分業化が挙げられます。まさにこの特徴によって、人間の感覚、認識は先程のヘビの例のようには都合よく拡張されないと私は考えます。つまり、行きすぎた専門化、分業化によって、一般人(ほとんどすべての人)にとってある技術(新しい技術であればなおさら)についての知識の全容を理解することが困難になっているということです。私たちの実感から科学技術は遠く離れたものとなっています。

 

少し前にニュース等で、ブラックホールが撮影されたことを専門家たちが伝えていましたが、その写真を見ても、ブラックホールの存在を「実感」することは出来なかったでしょう。その写真は私たちが全く知り得ない方法、技術で撮影されているのです。

 

これと同じことです。仮に宇宙人がいると専門家集団が喧伝したとしても、私はそれを信じられません。私の感覚器から遠く離れた場所に拡張された最新の感覚装置が宇宙人の存在を認識しても、私はその「遠さ」に耐えられず、認識することができないのです。ヘビの例は比較的自分に「近い」ために、認識することが可能だというだけです。

 

もし「宇宙人は存在する!」と私が確かに言えることがあるなら、それは私の脳に拡張感覚装置が接続された状態で、宇宙服を着て旅立ち、宇宙人を目で(?)見たときだけでしょう。そしてそのようなことは今のところ叶いません。あくまでこういう意味で言えば、私にとって宇宙人は永遠に存在しないといえます。

 

数直線のモデルでいえば、宇宙人は0~1のちょうど間ぐらいに位置しているのではないでしょうか。個人のレベルでいえば、宇宙人は存在しているし、同時に存在していない。存在性が未確定だということもできます。

 

私たちはなぜSFを楽しむのでしょうか。それは、映像、文章など何らかの媒体を通して、存在性が未確定の事物、つまり「数直線上で真ん中あたりに存在する事物」を一気に1へと引き寄せるからではないでしょうか。そして、疑似的に「数直線の真ん中あたり」を体験させてくれるからではないでしょうか。

 

それでも、SFがあくまでサイエンス「フィクション」と呼ばれるのは、そこでの体験が疑似的なものであることを少し知っているからなのでしょう。

 

最後に、「真ん中あたりの存在性」を疑似体験できる画像を提示して終わろうと思います。

 

 

 

「真ん中あたりの存在性」を体験できるSFの一例